宝福寺は、釋迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)を本尊とする曹洞宗のお寺です。
創建は、応仁元年(西暦1467年)に端を発し、令和2年現在553年の歴史を有する。その淵源を辿れば、鎌倉時代に大須賀嗣胤(おおすが・つぐたね)の曾孫胤景(たねかげ)によって創築された大宮城の東端、大宮西の山の地に位置し、その大須賀氏の子孫、大須賀五郎左衛門良益なるものが出家して、僧名、文翁良益(ぶんおう・りょうえき)を名乗り、曾祖父胤景の菩提を弔うため、応仁元年「水月庵」を結んだことに由来する。
その後、応仁元年から起こった「応仁の乱(1467年から11年間続いた内乱)」の地方への波及の影響もあって、大破、荒廃していたが、凡そ、百年後の天正年間、僧、芳桂了覺(ほうけい・りょうがく)によって再興されたことから、大開基を文翁良益沙弥(しゃみ)、開基を芳桂了覺蔵主(ぞうす)と位置付け、芳桂了覺の帰依した、曹洞宗通幻派(日本曹洞宗の開祖、道元禅師から数えて6祖、通幻寂霊禅師を系譜とする)の喜山春慶大和尚を当寺開山に迎え、往時から、天涯泰嶽國夫(てんがい・たいがく・こくゆう)を21世住職とする現在まで、その起源から、凡そ550年以上の歴史を閲(けみ)する。なお、現在も、大須賀氏から改姓した漆原氏が「開基家系累漆原家」として、宝福寺から認定されて現存している。
本堂内に、江戸時代前期、明(みん)時代の中国からの渡来僧で、各地を行脚(あんぎゃ)したと伝えられる、京都・宇治の黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山満福寺(明からの渡来僧、いんげん豆で知られる隠元禅師を開山第1祖とする)の2祖にして1864年74才にして没した性瑫木庵(しょうとう・もくあん)禅師の「紫金光(しきんこう)」と揮毫(きごう)された扁額(門戸、室内の上にかける横に長い額)が現在も掲げられている。因みに木庵禅師の墨筆は、「神品」とまで称えられたほど高名であったと伝えられ、行脚の途次、宝福寺に寄宿した折に書かれたものと思われる。
さて、そこで考えておかなければならないことがある。
なぜ、そのころの宝福寺に、木庵禅師は「神品」とまで伝えられる「紫金光」の揮毫を残したのでしょうか?木庵禅師が各地を行脚したと伝えられるのであれば、各地にその足跡(そくせき)が残っていても不思議ではない。しかし、その痕跡(こんせき)は、宝福寺にしか残されていないのである。そのことを考察することも、決して我田引水(がでんいんすい)の思い込みにはならないであろう。少々、強引な考察になるかも知れないが、それは、木庵禅師がある程度、長く宝福寺に滞在したのかも知れません。そして、そのころの宝福寺には、それなりに長く滞在する理由があったと考えても行き過ぎたことではないのかも知れません。それは、そのころの宝福寺には、木庵禅師が長く滞在するだけの影響力と権威(けんい)があったと考えることも、ごく自然なことかも知れません。
結論からいえば、木庵禅師の揮毫の残された理由は、今となっては解明することは不可能に近いかも知れないのです。いずれにしても、宝福寺としては、木庵禅師のこの揮毫の残されたことをお寺の誇りとして、また寺宝として、いまの世に充分に喧伝(けんでん)したとしても、非難されるいわれはないのです。それは、木庵禅師の揮毫が、宝福寺にのみ残されていたことは厳然たる、紛れもない事実であることにほかならないからなのである。
宝福寺はその山号を「青龍山(せいりゅうざん)」と号し、現在、山門には、曹洞宗宗務総長をつとめ、大本山総持寺禅師の顧問格に当たる「曹洞宗参議」の要職を歴任した、現住職の師、宇都宮市塙田の成高寺(じょうこうじ)、岡田巳成(おかだ・みじょう)大宗師の揮毫された山号額が新装掲額されている。
また、本堂正面向拝には、令和2年に特許庁から認定された商標登録「ご深影心拝額縁(ごしんえい・しんぱいがくぶち)」をその根拠とする「ご深影心拝殿(ごしんえい・しんぱいでん)」の扁額が掲げられ、令和2年11月23日に、その掲額回向(けいがくえこう)が修行された。この扁額は、宝福寺の寺檀であり書家としても高名なる「斎藤一吼(さいとう・いっこう)」先生の揮毫によるもので、もって本堂預託のご遺骨各霊位、当山永代供養の各霊位、並びに当山寺檀各家先祖代々、並びに今後預託されるご遺骨、並びに本堂に安置される「ご深影心拝額縁」による各家の墓地の懇篤(こんとく)なるご供養が尚一層深められることになったのである。
宝福寺の寺号の由来は、仏・法・僧(ぶつ・ほう・そう)の三宝(さんぼう)を大切にしていくという仏教信仰の基本理念を崇敬(すうけい)し、もって現実の世界に於ける多くの「悩みを発散」せしめて、釋迦牟尼佛と観音菩薩の金剛不壊(こんごうふえ)の念彼力(ねんぴーりき)と、往時境内にあったと思われる松の形に由来し山号にもなっている「青龍」の運気と、その昇龍が招き寄せる昇運の気流によって、この世の人々に「幸福の宝」をもたらすという理念を大いなる目標として、その教化、普及につとめているお寺である。
また、山号、青龍山の「青龍」とは、中国古来の伝説上の神獣を意味するといわれ、東西南北の方位のうち東方の守護神とされ、更に太陽をも象徴するとされる。大宮城の東端に位置する宝福寺の更に東方には、旧村、大宮村の集落が存在することから大宮城の守護神としての存在にして、その集落全体を守る神獣、引いては社会、世の中全体を守る存在として、宝福寺に冠する山号としての「青龍」が採り入れられ、それがまた人々への「幸福という宝」をもたらす威神力(いじんりょく)をもつ「宝福寺」というお寺の「寺号」にも叶うことになったのである。
また、青龍とは、龍の形をした瑞獣(めでたいいきもの)であり、川の流れを象徴するともされる。東に昇る太陽と、古来から宝福寺の近くを流れる鬼怒川の青い河川は穀物の実りを助け、青龍は成功と富の宝を導くともいわれることからも、寺号が宝福寺と命名された理念にも適合しているのである。
名称 | 宗教法人 宝福寺 |
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住職 | 植木 國夫 |
所在地 | 〒329-2332 栃木県塩谷郡塩谷町大字大宮2105 |
TEL | 0570-783-083(悩みを発散) |
建立 | 応仁元年(西暦1467年) |
宝福寺 〒329-2332 栃木県塩谷郡塩谷町大字大宮2105